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- K.N., シニアトランスレーター

翻訳者という職業には、「こうすればなれる」という青写真がありません。例えば、医師や弁護士であれば、学ぶべき内容や資格取得までの道筋が明確になっています。教師やパイロットにも取得すべき免許というものがあります。ところが翻訳者の場合、資格や免許がなくても、実力さえあれば誰でもなることができるのです。では、その「実力」には実際どのような要素が含まれるのでしょうか。 今回は日英メディカル翻訳者に必要な特性について考えてみたいと思います。

メディカル翻訳の仕事では、多くの場合、学術論文や治験関連の文書など非常に専門性の高い内容を扱います。したがって、内容を理解するためには科学的な専門知識が不可欠です。また、さまざまな医療分野をカバーできることも重要です。医師の場合は、例えば神経外科医のように、特定領域の専門医になる道がありますが、翻訳者の場合、専門分野を狭く限定してしまうと十分な仕事量は見込めません。つまり翻訳者は、医療分野において幅広い、かつ深い知識を持たなければなりません。とはいえ、翻訳という作業は本質的には理系の仕事ではなく、言語能力と文章力の上に成り立つひとつの専門技術なのです。科学的な知識が重要なことはもちろんですが、翻訳者はなによりもまず言語の専門家であり、ある言語で書かれた内容を別の言語で正確に表現すること、しかも自然で違和感なく読むことができる文章を適切な文体で書くことが求められるのです。

英語とドイツ語のように、ソース言語とターゲット言語が近縁関係にあり、言語構造が似ている場合、ある言語で書かれた内容を別の言語で表現するのは比較的簡単です。ところが、日本語と英語ほどかけ離れている言語ペアでは、翻訳を行う際に大幅な語順の入れ替えが必要であり、大きく異なる二つの言語に精通していなければなりません。日本語と英語の両方でネイティブレベルの語学力を獲得するのは至難の業であり、例えば、英語を母語とする人にとって、常用漢字2,000字強を覚えることや、日本語の文章の特徴を踏まえながら上手に訳すことは容易ではありません。他方で、日本語を母語とする人にとっても、英語の複雑な文法や、定冠詞と不定冠詞の使い分けなどをマスターするのは骨の折れることです。(日英バイリンガルの日本人翻訳者の存在が見落とされがちなのは、このような事情があるからかもしれません。)そのため、両言語でネイティブレベルに達している真のバイリンガルは、非常に稀な存在なのです。

それでは、優秀な日英メディカル翻訳者になるためには何が必要なのでしょうか。一言で言えば、それは「絶妙なバランス」です。翻訳者は、高度な専門知識と優れた言語感覚の両方を兼ね備えている必要があります。日本語の微妙なニュアンスを理解して、意図された意味を英語で明確に表現すること、つまり、修得が難しく、極めて対照的な二つの言語をバランス良く身につけ、その両言語を自由自在に操り(言語能力)、言語をまたいで概念を正確に伝える能力(翻訳能力)が要求されるのです。(言語能力と翻訳能力とは区別されるべきです。全てのバイリンガルが有能な翻訳者になれるとは限らないからです。)翻訳者になるために学位や免許は必要ないかもしれませんが、翻訳という仕事が非常に専門性の高い仕事であることは間違いなく、翻訳者はたぐいまれな能力を合わせ持つことが必要なのです。